20世紀~スポーツ復興の時代
スポーツの語源は、気晴らしだといいます。
その気晴らしを更に「世界の平和の祭典」まで昇華した近代オリンピック第一回開催が、あと数年で20世紀を迎える1896年、アテネ(ギリシャ)で行われました。
近代オリンピックの父、ピエール・ド・クーベルタンが言った「参加することに意義がある」という言葉は、争い事が続く世の中へのメッセージでもあったのでしょう。
そのオリンピックを政治的に利用しようとしたのが、ナチスドイツでした(第11回ベルリン大会、1936年)。
「スポーツイベントを利用して愛国心を高める。」
そこにはオリンピック本来の開催意義とは対局の考え方がありました。
第二次世界大戦の後は冷戦の中でオリンピック自体がスポーツの名を借りたイデオロギー闘争の場にもなっていきます。
もう、こうなってくると「気晴らし」などと言っておられません。
選手達が国を背負って戦わなければならないプレッシャーは如何ほどだったのか想像するのも怖くなります。
時は経ち、1984年。
先進国の産業が製造業から第三次産業へと移管していたこの時期に、それまでの規模とは桁違いのオリンピックが開催されます。
華々しく行われた第23回ロサンゼルス・オリンピックは、商業化と選手のプロ化を推し進め、前述した「参加することに意義がある。」という大会趣旨を覆し、勝つことに焦点をあてる為に、すでに死に体になっていた冷戦構造さえも、しっかり商売に利用したこの大会は、世界に「スポーツは膨大な富を生み出せるんだ」ということを認識させました。
この大会を経て、スポーツはよりエンターテイメント化し、大きな投資の対象にもなっていきます。
そしてスポーツが果たす役割は、いつの間にか単なる「気晴らし」から「生きる希望」や、「人生論」のようなものにまで及び、競技の勝者から「世の中を」勝ち抜く為のメンタルを学んだり、勝利を導いた指導者の考え方を会社経営や自己啓発のようなもの取り入れたりする者も現れ始めます。
ここまで来ると、スポーツは一つの信仰のようになってきます。
分かりやすい「勝利」という結果が、多くの人達をその信仰へと導いていくのです。
本来、私達の生活の中に織り込まれている様々なものには、どれにも等しく価値も意味もあり、学べることもいっぱいあるでしょう。
だから生きることを試合のように捉えるのも、競技スポーツから「人生を勝ち抜く為」の教訓を学べると考えるのも、アリなんだと思います。
特に現在のような表面的とはいえ自由競争の社会を生きていると、生きていく為に「勝者」にならなければならないと考えるのも分からないわけではありません。
だけど多くの場合、そう考えるにはそう考えるだけの前提があるものです。
過剰に競争を促す社会の仕組みそのものが問題であって、全ての人達が激しい競争を選んだ訳でも、望んだ訳でもありません。
結果、それぞれの競技の中で競うスポーツは、その時代の啓蒙に最も都合がよかっただけのような気がします。
そこが分かっていないと、ルールが変われば「みんな仲良く平等でなければならない!」と過剰な平等意識を即す正反対の社会に簡単に転んでしまうと思うんです。
その時代を生きていると、その時代の偏りに気づくのは難しいです。
だけど、どの時代も後で振り返れば何かが偏っていたと分かるものです。
20世紀はスポーティな方向に偏った時代だったと深く思います。
だから、この一世紀以上も続いている「スポーティな時代」を。そろそろしっかり理解し、習慣化され、使い古されて腐りかけたところなんかを治すべき時期にきているのかもと感じるんです。
そして、その偏りに気づくことで、改めて多様な考え方が認められる社会になっていければと望んでいます。
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