脱藩
江戸時代、武士は藩に帰属し、そこから許可なく出ることはできませんでした。
もし脱藩した場合は、欠落(かけおち)の罪となり、家名は断絶、財産没収、場合によって死刑に処される厳しい処罰を受ける可能性があったのです。
そういう罪に問われることが分かっていても脱藩するのは、借金苦から逃れたい、何か犯罪を犯した、与えられた役職が堪えられなくなった…など、多くは個人的な理由だったようです。
しかし、幕末になると、脱藩する人たちの中に新たなタイプが加わりました。
それは吉田松陰や高杉晋作、そして坂本龍馬のように自分の思うように他藩や他国とやり取りをしたいと思う人たちです。
刻々と情勢が変わる幕末の時代に、いちいち藩にお伺いを立てて、許可を得てから出かけてたのでは変化に追いつけません。
ましてこれから政治を変えようと思っているのに、藩なんて背負ってられっかよ!って思うのも当然です。
そういう訳で、文久2(1862)年3月24日、坂本龍馬は沢村惣之丞と共に土佐藩を脱藩します。
翌日、2人は龍馬の父・坂本直足と親交があった土佐随一の槍の使い手・那須俊平の家を訪れ、脱藩したことを告げました。
その翌日の早朝、伊予の道を熟知している那須俊平は息子の信吾と共に、龍馬と惣之丞の道案内をしました。
俊平と信吾の道案内で2人は大越峠を越え、宮野々番所を抜け、松ヶ峠番所を抜けて、国境の韮ヶ峠を越えて伊予の国(愛媛県)に脱藩しました。
標高970mの韮ヶ峠から見下ろす故郷・土佐の風景を、龍馬はどのように感じながら眺めたのでしょうか。
そこで那須信吾と別れましたが、俊平はその先も同行し、泉ヶ峠で宿泊して、翌日、喜多郡宿間村まで2人を案内して別れます。
龍馬と惣之丞は船便で長浜へ行き、勤王の志士たちを援助していた豪商・冨屋金兵衛宅で一泊し、翌日、船に乗り二日がかりで三田尻港(山口県)へ到着しました。
坂本龍馬の脱藩を決心させたの人は、おそらく久坂玄瑞だったのでしょう。
龍馬は脱藩する前に、剣術修行の名目で長州藩を訪れ、久坂玄瑞に、土佐勤王党の同志・武市半平太の書簡を渡し、今後の土佐と長州の尊攘の志士たちの連携について打ち合わせをしています。
そこで玄瑞は、吉田松陰の教えでもある「草莽崛起」(藩の枠に囚われず、自分たち草莽の志士が起ち上がり、攘夷の義挙に出る以外に道はない)を語り、武市半平太に脱藩を勧める書状を龍馬に託します。
玄瑞の思いに強く共鳴した龍馬は書状を半平太に渡し、脱藩を勧めますが、武市半平太はあくまで一藩勤王の実現を目指す考えを譲りません。
それに業を煮やした坂本龍馬は、自分自身の脱藩を決心します。
脱藩した龍馬を”裏切り者”のように罵る勤王党の志士たちに向かって、
「龍馬は土佐の国にはあだたぬ(収まりきらぬ)奴。広い処へ追い放してやった」
と武市半平太は言いました。
一見、半平太が強がって言っているように聞こるこの言葉…案外、これが半平太の本心であり、自分ができない夢を龍馬に託していたのかもしれません。
久坂玄瑞と共に、武市半平太も、きっと龍馬の背中を押してやりたかったのだと感じます。
●『龍馬はん』 慶応3年11月15日(1867年12月10日)、近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された当日、真っ先に斬り殺された元力士・藤吉。 その藤吉の眼を通して映し出された、天衣無縫で威風堂々とした坂本龍馬を中心に、新撰組副隊長・土方歳三の苦悩と抵抗、「龍馬を斬った男」と言われる佐々木只三郎、今井治郎の武士としての気概など、幕末の志士達の巡り合わせが織り成す、生命力溢れる物語……。 |
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