前回、高杉晋作は、下関戦争で長州藩に生じた連合軍への賠償金を、幕府に全額支払わせたという話をしました。
だけど、当時、幕府と長州藩の仲は最悪だったのに、高杉晋作はどうやって幕府にその尻拭いをさせたのでしょうか?
その過程を追うと、現在の日本にも通じる何かを感じて頂けるかもしれません。
そもそも下関戦争は、孝明天皇の攘夷の勅命を受けて、将軍・徳川家茂が文久3(1863)年5月10日の攘夷実行を約束したことで起きた戦でした。(その後、薩摩藩もイギリスと戦争(薩英戦争)を行っています。)
だけど幕府自身は、攘夷を決行する意志などまったくなく、幕府と通じている藩もそれに従います。
決起に逸る長州や薩摩が勝手に欧米と衝突すれば、むしろ幕府にとって都合が良いと考える者さえいました。
その者達の思惑通り、長州藩は決行し、ボロボロにやられてしまいます。(薩摩は善戦し、これによってイギリスと急激に接近することになります。まさに『昨日の敵は今日の友』ですね。)
「これで長州は終わる。」
幕府のみならず、長州藩自身も、そう考えたはずです。
それを完全に反転させたのが、連合軍との和議交渉を任された高杉晋作でした。
「攘夷実行を指令したのは将軍・家茂であり、我が藩はそれに従ったまで。
すべての責任は、その指令を出した家茂にあり、それを支える幕府にある。」
高杉晋作は、そう主張します。
そしてそれは、世界基準でいうと当然すぎる主張でした。
誰が責任を持つのかあやふやになることが多い、この国の在り方を、見事についた反撃だったともいえます。
結局、幕府は(晋作の基によって)筋の通った連合軍の主張を聞かざるを得なくなり、300万両もの賠償金を支払うことを約束します。(結局、幕府は半分の150万両を支払い、後の明治政府が後の半分を支払いました。)
この膨大な賠償金を支払わなければいけなくなったことで、幕府の財政事情は一層逼迫し、この幕府の失態が、後の維新を推し進める一つのきっかけともなっていくのです。
このような逸話を通してみると、高杉晋作という人は、非常に柔軟性に飛んだ人のようにも感じます。
それは刀が武士の誇りだった時代に、ピストルを持ち歩いていたところをみても明らかです。
“「ほうじゃ、長州の高杉晋作じゃ。
あん人がおらんじゃったら、ワシはとうに、あの世に行っちゅう。
あん時、高杉さんがくれたピストールのお陰で、なんとかこうして生きちゅうぜよ。
高杉さん。
げに面白き、お人じゃったちや。」”
抜粋:: 嶺里ボー “龍馬はん”。
その高杉晋作からもらったピストルによって、寺田屋で命を救われた坂本龍馬。
その龍馬の目に、幕末の世を共に生きた高杉晋作はどう映ったのでしょうか?
嶺里 ボー『 龍馬はん』
「野暮ったい恰好してんけど、ああいうオトコは、案外オンナにモテんねんで。」
維新の志士、坂本龍馬が暗殺された近江屋で、真っ先に殺された力士・藤吉の目に、龍馬や幕末の侍たち、町民の暮らしはどう映っていたのだろうか?
倒幕、維新の立役者として名高い坂本龍馬・中岡慎太郎の陰で、ひっそりと20年の命を閉じた藤吉に眩しいほどのスポットを当て、涙や感動・笑いやほのぼのなどをいっぱい詰めた、嶺里ボーならではのユニークで豪快な一作です……。→ 続きを読む