坂本龍馬とお登勢

坂本龍馬が京都で定宿していた寺田屋の女将・お登勢は、龍馬が”おかあ”と呼ぶほど慕い、頼りにしていた人でした。
禁門の変で住む場所を失ったお龍の面倒を快く引き受けてくれたのもお登勢です。

 

そのお登勢とは、いったいどんな人物だったのでしょうか?

 

 

文政12(1829)年、お登勢は近江国大津(現・滋賀県大津市)で旅館を営む大本重兵衛の次女として生まれました。
18歳の時、
京都伏見の船宿・寺田屋六代目伊助に嫁ぎますが、伊助は怠け者で京都木屋町の妾宅に入り浸って寺田屋へは帰らず、宿の切り盛りはすべてお登勢がやっていたといいます。

 

世話好きで、人の面倒見もよく、何人もの捨て子を引き取って育てたお登勢を、娘・殿井力(とのいりき)は

「世話好きで、物見遊山はおろか、
芝居一つ見にゆかない人でしたが、
ただ一つの道楽は人の世話をすることでした。」

と語っています。

 

寺田屋は江戸初期から続く老舗の船宿で、船頭を多く抱えていたので船足が早く、寺田屋が幕末の志士たちに人気があったのは、お登勢の人柄に加えて、近所の旅籠に付ける船は道頓堀組合の6人船頭なのに対して、寺田屋に付ける船は大阪八軒屋組合の8人船頭だったので、逃げ足が速かったからとも言われています。

 

文久2(1862)年、その寺田屋で大きな事件が起きます。
薩摩尊王攘夷派が薩摩藩主・島津久光によって粛清された「寺田屋事件」です。

激しい戦闘が行われている中、お登勢は子供達をかまどの裏に隠して、1人で帳場を守りました。
そして騒動後は血で染まった畳やふすまをすべて取り替え、天井の血糊をきれいにふき取らせて、翌日には通常商いを始めたといいます。
本当に肝が据わっていますよね!

 

その上、騒動で亡くなった9人の藩士たちの法要を薩摩藩が行わなかった為、お登勢は寺田屋に薩摩藩から支払われた迷惑料を使って9人の位牌を作り、寺田屋の仏壇で自ら供養しました。
なんて思いの深い、いい人なんでしょう!

 

薩摩藩は、そんなお登勢を信頼し、当時幕吏に狙われていた坂本龍馬の庇護を頼み、お登勢はそれを快諾します。

こうして坂本龍馬とお登勢は出会いました。

龍馬がいる時は、お登勢は宿客を一切謝絶して二階で隠匿っていたそうですが、龍馬は、昼はぐっすり寝ていて、夜になると何処かへ出掛けて行き、雨が降ると、二階に引き籠って、書見をしていたそうです。

 

そんな風変わりな龍馬ですが、お登勢は、龍馬がいると「いきいきと匂い立つように見えた」と殿井力が述懐しています。
そして龍馬のことをお登勢の子供達も慕っていました。

殿井力は幼少の頃、龍馬が幽霊の話や面白い話をしてくれるので、寺田屋に来るのを楽しみにしていたそうですが、子供達が大きな声で騒ぐので、お登勢から「龍馬を匿っているのですから大きな声を出してはいけません」と言われたそうです。
それに対して龍馬は「見つかったら見つかった時だ。」と言って笑っていたといいます。

 

ここで少し話が逸れますが、殿井力の話によると、龍馬はとてもオシャレだったそうで、
「仙台平の袴を履き絹の羽織を着て、時には玉虫色の袴を履いていた」と語っています。
龍馬=汚い服というイメージなので、ちょっと意外ですよね。

 

元治元(1864)年、夫・伊助が35歳の若さで急逝します。
それからお登勢は再婚することなく女手一つで一男二女を育てながら、更に5人の捨て子を自分の子供と隔てなく育て上げました。
龍馬がお龍を預けたのもこの時期です。
こんな大変な時でも、お登勢は
お龍の面倒をしっかり見て、お龍をお春と呼んでわが娘のように可愛がったそうです。

 

そして慶応2年1月23日(1866年3月9日)、伏見奉行の捕り方が寺田屋に泊まっている坂本龍馬を捕縛に来て大騒動になった「寺田屋事件」が起きます。
お登勢は龍馬を匿っていた容疑で奉行所に連れて行かれ、尋問を受けますが、毅然とした態度で応対し、その後、無事釈放されたそうです。

 

この事件によって龍馬はもう寺田屋を利用できなくなりますが、何かある毎に、龍馬はお登勢に手紙を書きました。

その内容は龍馬が他の人に出す手紙と違って、弱音を吐いたり、頼みごとをしたり、本当にお登勢を心の拠り所にしていたのがうかがえる手紙ばかりです。
そしてお登勢も龍馬が近江屋で暗殺される前に、くれぐれも気をつけるようにと心配している手紙を出しています。

 

しかし慶応3年11月15日(1867年12月10日)、近江屋で坂本龍馬は暗殺されてしまいました。

 

 

龍馬が亡くなった後も、土佐の坂本家に馴染めなかったお龍が京都に来た際に、お登勢はしっかり面倒をみています。
そんなお登勢のことを、お龍は晩年「腹の底から親切だったのは西郷と勝、そしてお登勢だけだった」と語りました。

 

明治10(1877)年、お登勢は49歳の若さで亡くなりました。

お登勢の娘・殿井力は龍馬との思い出と母・登勢の思いを

「….父伊助とは作ることのできなかった家族の団欒のようなものが、そこにはたしかにございました。この先ずっと父がすわる場所に坂本さんがいてくれたらと、娘心に願ったものでしたが、もしかしたらそれは母の願いであったかもしれません」

と話しています。


幕末の荒々しくて騒々しい時代、心を尽くして困っている人の世話をやき、愛情を注ぎ続けた、そんなお登勢の中に、激動の京を生き抜いた女性の真の優しさ、逞しさを感じながら、少し切ない思いにもなるのです。

 

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