以前お話した平井加尾の兄・平井収二郎と坂本龍馬は同い年でした。
天保6(1835)年7月14日、土佐藩士(新留守居組格、三人扶持10石)平井伝八直証(直澄)の嫡子として土佐郡久万村に生まれた収二郎は、幼少の頃から文武を修め、伊勢の朱子学者・斎藤拙堂のもとで学んでいます。
漢詩漢文などを学び、頭脳明晰で闊達、思慮深く、歴史好きで、「戦国策士」の趣があったといいます。
13歳くらいまでおねしょしていたり、退塾処分になったりしていた龍馬とは正反対の印象ですよね。
文久元(1861)年、「尊王攘夷」思想とともに、安政の大獄により失脚した前藩主・山内容堂の意志を継ぐ「君臣の義」が謳われた大石弥太郎の起草による盟約書を、武市半平太が留学中の江戸から土佐へ持ち帰り、200人余の参加者を集めて土佐勤王党が結党されます。
そこに坂本龍馬と共に平井収二郎も参加しました。
攘夷に沸く薩摩、長州は、藩主を奉じて攘夷運動の中心である京に進出しようとする動きが出ていましたが、土佐は武市らが度重ねて土佐藩参政・吉田東洋に「挙藩勤王」を説き続けても土佐藩主・山内豊範の京への進出を頑として受け入れず、それに痺れを切らした坂本龍馬ら複数の同志が脱退、脱藩してしまいます。
しかし文久2(1862)年4月、土佐勤王党の手によって吉田東洋が暗殺され、すべての事態は急転します。
堰を切ったように攘夷運動が溢れ出し、勤王党は三条実美を通じた工作により、文久2年8月、遂に藩主・山内豊範が入京、それに伴って武市半平太、平井収二郎らが他藩応接役を任じられます。
入京するとすぐに収二郎は諸藩の有志や公家と親交を結び、名は広く知れ渡り、 「江戸には間崎哲馬。京都には平井収二郎がいる。」と言われたそうです。
そして土佐勤王党は他藩と共に岡田以蔵などを使って攘夷派弾圧に関与した者たちを”天誅”の名の下に粛清をするなど、急速に過激な活動を始めます。
そんな流れの中で、平井収二郎は土佐藩の藩政改革を朝廷から働きかけてもらおうと計り、間崎哲馬、弘瀬健太と共に中川宮(青蓮院宮)に、土佐藩主の父である前々藩主・山内景翁宛ての令旨を請います。
(少し話が逸れますが、中川宮は孝明天皇の”攘夷は幕府主導を望み、倒幕は望んでいない”という思いを支持していたので、幕府寄りの会津藩と歩み寄れそうな薩摩藩との同盟を実行し、倒幕を目指す長州と薩摩を引き離すことに成功します。
実は収二郎たちの考えと中川宮の考えは、最初から根本的に相容れないものだったのかもしれません。)
そして、この拙速が後に大きな代償を伴ってしまうのです。
翌年の文久3(1863)年4月、前藩主・山内容堂が謹慎を解かれ帰国すると、事態はまた一変します。
先の平井収二郎たちの行った勤王運動の為の朝廷工作を知り、激怒した山内容堂は、間崎哲馬、弘瀬健太と共に平井収二郎を帰国させ投獄し、3名共に切腹を言い渡します。
わずか2年前に”山内容堂の意思を継ぐ”思いの元に結成された土佐勤王党。
その中で、最も精力的に行動した平井収二郎は、その山内容堂の意思の元に切腹をしなければならなくなったのです。
幼馴染みの龍馬のように気ままに生きることを好まず、自らを律し、よく学び、よく仕えた平井収二郎の死を知った龍馬の悲しみはどれほどだったでしょうか。
”ああ哀しいかな、綱常張らず
洋夷陸梁して、辺城防ぎ無し
狼臣跋扈して、蕭牆に憂いあり
世を憤り国を憂い、忠臣まず傷つく”
平井収二郎が爪書きで残した辞世の句の和訳です。
この無念の思いを妹・加尾は墓石に刻みました。
文久3(1863)年6月8日、収二郎は間崎哲馬、弘瀬健太と共にこの世を去りました。
平井収二郎。
享年28。
嶺里 ボー『 龍馬はん』
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