脱藩/那須俊平と那須信吾

鎗の達人・那須俊平

 

文久2(1862)年3月25日夜、脱藩を決意した坂本龍馬は沢村惣之丞と共に梼原に住む那須俊平の家を訪ねます。

那須俊平は文化4(1807)年1月2日、土佐藩高岡郡梼原村の郷士・坂本重隆の長男として生まれました。
7歳の時に郷士那須家当主・那須忠篤の養子になり、那須姓に変わります。

 

 

幼少の頃から利発で、学問が好きでしたが、那須家に入って以降、武芸も好むようになり、三木広作に剣術を、更に山田喜馬太のもとで槍術を学び、後に「土佐一の鎗の達人」と称せられました。
その腕は鎗の大家・坂本直足を凌いだとも言われ、その親交から直足の子・龍馬に学問を教えたとも言われています。

屋敷の邸内で「那須道場」を開き、多くの人材を育成し、嘉永6(1853)年頃には、これらの武功により藩より俸禄を賜っています。

後に藩内で指折りの剣客だった浜田重民を娘・為代の婿養子として迎え、重民は養子になるのに併せて名前を信吾に変えました。
そして那須信吾は道場で俊平に変わって師範を努めます。

 

天狗さま・那須信吾

 

那須信吾は(文政12(1829)年11月11日生)、土佐藩の家老を務める浜田光章の三男として生まれました。
後に土佐勤王党、陸援隊へ参加する田中光顕の叔父にあたります。

6歳の時に父・光章が亡くなり、兄・金治の教育を受けて育ちました。
身長は180cm以上あって、力が強く、足がとても速かったので「天狗さま」と呼ばれていたそうです。

為代との間に2人の子供が生まれ、養父の俊平が開いた道場で師範を努めている時は、多くの若者に慕われていたそうで、坂本龍馬とも深い親交がありました。

 

 

文武に優れ、人々に慕われた2人。
時代が違えば、親子共々平和に、幸せに暮らせていたのかもしれません。
だけど幕末の渦の中に2人は自ら飛び込んで行きます。

息子・那須信吾は、文久元(1861)年、武市半平太らによって結成された土佐勤王党に坂本龍馬と共に加わりました。

 

信吾の脱藩

 

連絡手段のない時代、まして脱藩という行為を龍馬たちは先に手紙などで伝えたとは思えず、その上に事前から日時を予定した脱藩のようにも思えないので、おそらく坂本龍馬と沢村惣之丞が夜に那須家に訪ねて来た時は、その突然の脱藩の意思に、那須親子は少なからず動揺したことと思われます。

 

龍馬たちが訪れる以前に、那須信吾は先に脱藩した元土佐藩士・吉村寅太郎の紹介で、土佐に潜入した越後の浪人・本間精一郎と秘密裏に会っていました。

そこで精一郎から武市半平太へ脱藩を勧める内容の書状を受け取った信吾は、すでに精一郎の素性を見破り、手紙を渡す際に半平太に脱藩はしないように勧めたとも、信吾は雄弁な本間精一郎の言葉に心酔し、半平太の脱藩を勧めたけど、半平太は断固としてそれを拒否したとも言われていますが、国境に近い梼原に居を構える信吾の心境が激しく揺れ動いたことは確かでしょう。

そして、仲のよい坂本龍馬が土佐勤王党を辞め、脱藩すると言ってきたのですから、その後の信吾の運命はここで決したように思われます。

 

同年5月6日、那須信吾は土佐勤王党の同志・大石団蔵・安岡嘉助と共に、勤王党の意思をことごとく遮る土佐参政・吉田東洋を暗殺します。

当夜は激しい雨だったといわれています。
ずぶ濡れになりながら東洋を待ち伏せ、初めて人を切り殺した信吾の心の中にいったい何が宿ったのでしょうか。

那須信吾はその後に脱藩。長州藩に逃亡します。
長州の久坂玄瑞を頼り、長州藩、薩摩藩邸に潜びました。

同年6月、信吾の潜伏先に一通の書状が届きます。
「妻子のことはつゆばかりも心にかけず、更に奮って」
その手紙の中に鎗術皆伝の一巻が添えられていたといいます。

翌年の文久3(1863)年8月、那須信吾は薩摩藩邸を出て、公卿・中山忠光を主将にし、吉村寅太郎らが旗揚した尊王攘夷派の武装集団「天誅組」に加わります。

しかし、その直後、政局は一変します。
「八月十八日の政変」が起き、朝廷の実権は公武合体派が掌握。
そして天誅組は暴徒として追討の命が下されるのです。

 

●『龍馬はん』

慶応3年11月15日(1867年12月10日)、近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された当日、真っ先に斬り殺された元力士・藤吉。

その藤吉の眼を通して映し出された、天衣無縫で威風堂々とした坂本龍馬を中心に、新撰組副隊長・土方歳三の苦悩と抵抗、「龍馬を斬った男」と言われる佐々木只三郎、今井治郎の武士としての気概など、幕末の志士達の巡り合わせが織り成す、生命力溢れる物語……。

那須俊平と那須信吾2→

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