坂本龍馬と平井加尾2

そして加尾は文久2年(1862)10月、兄・収二郎が京に出るのと入れ替わるカタチで土佐へ戻ります。
それから平井収二郎が京で活躍を始めるのですが、翌年、勤王党の構想する藩政改革を行うための工作をしたことが山内容堂の怒りにふれ、その年の6月8日に間崎蒼浪、広瀬健太と共に切腹させられてしまいます。

 

その知らせを聞いた龍馬は乙女姉に

「平井の収二郎ハまことにむごい むごい

いもふと(妹)おかお(加尾)のなげきいかほどか…」

と加尾を気づかった手紙を送っています。

 

しかし加尾は、毅然と兄の死を受け止め、仕えていた三条家からの慰労金を使って、無念を告げる収二郎の爪書きの絶命詩を刻んだ墓を立てます。
そしてそれを知った土佐藩は、その句を消すように厳命します。
当時の状況下で平井家のことを考えると、それに従わざるを得ませんでしたが、30年後、加尾は再び絶命詩を刻んだ収二郎の墓を再建するのです。
この一連の行動に、加尾の気丈で、正義感の強く、そして家族思いの側面が垣間見えるように感じます。

 

兄の死後、加尾は慶応元年(1865)4月、土佐勤王党員だった西山志澄を、平井家を残すために婿養子に迎えて結婚し、平井家を継ぎました。
その後、女の子を2人産み、明治11年(1878年)加尾は夫・西山志澄と共に西山に復籍し、平井家は後に娘に再興させています。

 

尚、加尾の夫・西山志澄は、後に龍馬が世に広まるきっかけを作った人なのですが、それはまたの機会にふれたいと思います。

 

よく加尾は「龍馬の初恋の人」として取り上げられます。
だけど、その真相は定かではありません。

 

あくまで私見ですが、龍馬は加尾を女性としてよりも、幼馴染みとして見ていたように思います。
互いに恋愛感情はあったかもしれませんが、それを発展させてゆく時間が足りなかったようにも、また、当時2人はまだ若過ぎたようにも感じます。

 

「再び龍馬に対面する期なく止みしハ、女史の一生涯遺憾に思ふ所なるべし」
(再び龍馬に出会う機会が無かったのは、私の一生涯遺憾に思う処でございます)

(『平井女史の涙痕録』より抜粋)

無念の思いを、飾ることなく、そのままに加尾は語っています。

 

 

龍馬が死後も、平井加尾と乙女姉の付き合いは、乙女姉が明治12年(1879年)に亡くなるまで続きました。
その中で2人は、亡き龍馬のことをどのように語り合っていたのでしょうか。

 

平井加尾は1909年(明治42年)72歳で亡くなりました。
西山家には坂本龍馬の筆の傍に女性の文字で書かれた

「あらし山
花にこころの
とまるとも
馴(なれ)し ミ国(みくに)の
春なわすれそ」

(京の花にこころはとまっても 故郷の春を忘れないでください)
という歌が残されています。

これは加尾が龍馬への想いを込めた歌といわれています。
それを大事にとっておいた夫・西山志澄の優しさ、逞しさ、人としての清さが素敵すぎます。

 

そして、幼馴染みの加尾が、そんな素晴らしい男性と巡り会えたことを、きっと龍馬も喜んでいるだろうとも感じるんです。

 

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