坂本龍馬と寺田屋事件

慶応2年1月23日(1866年3月9日)、京での薩長同盟の会談を終えた翌日深夜2時、坂本龍馬は、長府藩士・三吉慎蔵と共に宿泊していた寺田屋で、伏見奉行の林肥後守忠交の捕り方に囲まれます。

 

”此大坂より申来りしハ幕府大目付某が伏見奉行へ申来るにハ、坂本龍馬なるものハ決而ぬすみかたりハ致さぬ者なれども、此者がありてハ徳川家の御為にならぬと申て是非殺す様との事のよし。此故ハ幕府の敵たる長州薩州の間に往来して居との事なり。其事を聞多る薩州屋敷の小松帯刀、西郷吉之助なども皆、大笑にてかへりて私が幕府のあわて者に出逢てはからぬ幸と申あひ候。”

(取り方は「坂本龍馬なる者は、決して盗みや虚言を申す者ではないが、この者がいては徳川家のためにならぬので、ぜひ殺すように。その理由は、幕府の敵である長州・薩摩の間を往来しているため」と言ったと説明すると、これを聞いた薩摩屋敷の小松帯刀や西郷隆盛たちは皆、「かえって君が幕府のあわてものに出会って良かった」と大笑いしました。)

 

(写真は同日の龍馬の手紙ですが、上に取り上げた文面の内容を追っているものではありません。)

 

これは慶応2年12月4日、坂本龍馬が兄の坂本權平に宛てた6ページに渡る手紙の一節です。

 

坂本龍馬は三吉慎蔵と共に捕り方から逃れた後、薩摩屋敷で小松帯刀や西郷隆盛と談笑している様を綴ったものですが、手紙はその後の馬関戦争における高杉晋作の活躍なども書いてあり、歴史が好きな人でなくても興味深い内容がメガ盛りです。

 

この手紙の同日、乙女姉宛てに、寺田屋で怪我をした養生と、少しの間、身を隠す為に、お龍と共に訪れた長崎の旅のエピソードをしたためた楽しい手紙も送っていて、兄と姉では文面が全然違っているところも、いかにも龍馬らしくて面白いです。

 

また、どちらも細かな図解が付いていて、文面は違っていても、どちらも躍動感があって、読む人を楽しませようという心配りがあり、その上に状況の説明はとても丁寧で細やかです。

これは簡単なようで、案外難しくて、どちらにも偏らず物事を伝える技術や心がけを、龍馬はとても大切にした人だったんだなと感じます。

 

嶺里ボーの小説『龍馬はん』で、そんな龍馬の思いの居場所を感じて頂けると嬉しいです。

 

“「ゆうことは、藤吉は、商いは ”ケチ” で ”あざとい” もんしか出来んち思いゆう、いうことかえ?」

「そうかもしれまへん。」

「まっこと、そういう商いをしよる者も、こじゃんとおるろう。
じゃけんど、ほれは、自分のことしか考えん ”こんまい” 商いにしかならんちや。」

「 ”こんまい” でっか?」

「ほうじゃ。
”こんまい” 商いじゃ。例えば…”

抜粋:: 嶺里ボー “龍馬はん”

 

嶺里ボーのKindle小説「龍馬はん」

嶺里 ボー『 龍馬はん』 

 

 

「野暮ったい恰好してんけど、ああいうオトコは、案外オンナにモテんねんで。」

維新の志士、坂本龍馬が暗殺された近江屋で、真っ先に殺された力士・藤吉の目に、龍馬や幕末の侍たち、町民の暮らしはどう映っていたのだろうか?

倒幕、維新の立役者として名高い坂本龍馬・中岡慎太郎の陰で、ひっそりと20年の命を閉じた藤吉に眩しいほどのスポットを当て、涙や感動・笑いやほのぼのなどをいっぱい詰めた、嶺里ボーならではのユニークで豪快な一作です……。→ 続きを読む

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