「坂本龍馬は本当に剣が強かったのかな?」
それを知りたがる人、案外多いですよね。
「坂本龍馬は免許皆伝だっていうけど長刀だろ?
じゃ、大したことないんじゃね?」
とか、
「いや、龍馬って頭バカだったけど、剣は強かったらしいよ。
当時、土佐で
”頭も剣もできる武市半平太は当然出世する。
だけど諦めるな!
バカでも剣が強けりゃ龍馬みたいに出世する”
みたいな歌が庶民の中で流行ってたそうだし。」
なんて話は、龍馬好きなら聞いたことがあると思います。
だけどその前に、龍馬が生きた幕末の時代の剣術って、いったいどういうものだったのでしょうか?
そこを理解することで、坂本龍馬の剣の腕や、当時の剣術に対する捉え方が分かるかもしれません。
実は幕末の頃まで、日本刀を使う剣術は、あまり実用的だと思われていなかったようです。
戦国時代のような合戦の時に大事にされるのは弓や槍であり、もし接近戦になっても、甲冑の隙間を刀で切り込むのは難しいので、刀を使わず取っ組み合いになることが多く、そういう意味で、剣術は長刀や槍の方がプライオリティが高く、また取っ組み合いの為の柔術を学ぶ人の方が多かったそうです。
日本刀を中心に置いた剣術が盛んになっていくのは、そういう合戦がなくなり、戦いが私闘になってゆく江戸時代以降になります。
江戸時代初期に宮本武蔵などが出てくるのは、そういうわけなんですね。
当時の剣術といえば、柳生新陰流などが有名ですが、これらの剣術は一子相伝で流派の教えが門外に出ることは許されませんでした。
そして3世紀に渡る太平の世が続く中、徳川家康以降、幕府が推し進めてきた儒教や禅に基づく「武士」という観念を前面に押し出した「武士道」というものにどんどん転化していった為に、「強くなる為の」技術はどんどん形骸化していきます。
そして武士の嗜みの剣術修行は、より精神修行的な色合いが強くなっていきます。
そこに突然、ペリーがやって来ます(嘉永6(1853)年)。
その当時、アヘン戦争(1840~42年)で清国が悲惨な状況になっていることを知っていた幕府や各藩の武士たちの意見や行動は、ペリーの開国要求によって入り乱れます。
その中の一つとして武道が見直されていきます。
江戸幕府は、幕臣とその子弟を対象とした武芸訓練機関・講武所を設立し、剣術の内容は、より実践に即したものが求められるようになります。
その中に、龍馬が学ぶ北辰一刀流もあったのです。
…今回のお話はここまで!
次回はその北辰一刀流についてお話します☆
“「坂本さん、これで新政権のカタチができてきましたよ!
ニッポンの夜明けも近いですね!!」
岡本はんの声は、いつもより更に甲高くなってます。
龍馬はんは、それに軽く頷き、畳に座らはりました。
「….けんどのう岡健、まだじゃ。
まぁだ何も始まっておらんき、浮かれるがは、もうちっくと先ながじゃ。」
…そうやったか。
ワテは気づきました。…”
抜粋:: 嶺里ボー “龍馬はん”
嶺里 ボー『 龍馬はん』
慶応3年11月15日(1867年12月10日)、近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された当日、真っ先に斬り殺された元力士・藤吉。
その藤吉の眼を通して映し出された、天衣無縫で威風堂々とした坂本龍馬を中心に、新撰組副隊長・土方歳三の苦悩と抵抗、「龍馬を斬った男」と言われる佐々木只三郎、今井治郎の武士としての気概など、幕末の志士達の巡り合わせが織り成す、生命力溢れる物語……。→ 続きを読む