”尚々、拙義共報国有志と目かけ、婦人しとひ候事、筆紙難尽、
先京ニ而ハ、嶋原花君太夫…。
報国の心ころをわするゝ婦人哉
歳三如何のよミ違ひ….”
(報国の有志たる私たちを、女性が、ここに書き切れないほど慕ってきて、もう大変ですよ。
まず京都には、島原の花君太夫がいて…。
….
報国の心を忘れる女性たち
コリャ、歳三、詠み違えました(^^))
これは、文久3(1963)年11月 、土方歳三が 武蔵国多摩郡(現在の東京都町田市)に住む新撰組の支援者・小島鹿之助に宛てた手紙の一節です。(この他にも歳三自身がもらった恋文を同封した手紙も小島鹿之助に送っているそうです。)
文久3年は、土方歳三がいた壬生浪士組が”八月十八日の政変”における活躍を評価されて、新撰組という隊名を拝命された年なので、こんな冗談も言いたくなるほど前途洋々とした気分だったのでしょう。
この話を持ち出すまでもなく、土方歳三は当時、とてもモテたようです。
上の手紙のの続きも…
”京都は島原の花君太夫、天神に一元、
祇園にはいわゆる芸妓が3人ぐらいいて、
北野には君菊、小楽という舞子、
大坂新町には、若鶴太夫と他にも2,3人いて、
北の新地になると、たくさんい過ぎて書ききれない…。”
と、思いっきり自慢しています。
鬼の副隊長・土方歳三のおちゃめなところが伺えて和みますが、後の新撰組の隊員たちへの厳し過ぎる対応を思うと、そのギャップに少し怖さを感じるのも正直なところです。
”しれば迷い しなければ迷わぬ 恋の道”
『豊玉発句集』より(豊玉は土方歳三の雅号)
壮烈な人生を送った土方歳三も、人に恋する生身の人間です。
あんな時代を生きなければ、土方歳三はどのような人と結ばれて、どのような人生を歩んでいたのでしょうか?
嶺里ボー が書いた小説『龍馬はん』には、そんな悩める土方歳三が登場します。
“「..オイラはいったい…何の為に侍を志したんだ?!
新撰組の隊員がみんな、幕臣として取り立てられた時、そりゃぁ近藤さんは喜んでたぜ。
だけどよぉ…..、
いくら幕臣になったって、その幕府が政権を帝に返上しちまっちゃぁ、”幕臣”もナンも、ねぇもんだろ…?!
このままじゃ、オレ達はいいように幕府に使われて、間違いなく、お終(しめ)ぇだぜ…..。
…オイラは、いったい何の為に…、
誰の為に、この命を懸けて戦ってんだ..?!」”
抜粋:: 嶺里ボー “龍馬はん”。
嶺里 ボー『 龍馬はん』
「野暮ったい恰好してんけど、ああいうオトコは、案外オンナにモテんねんで。」
維新の志士、坂本龍馬が暗殺された近江屋で、真っ先に殺された力士・藤吉の目に、龍馬や幕末の侍たち、町民の暮らしはどう映っていたのだろうか?
倒幕、維新の立役者として名高い坂本龍馬・中岡慎太郎の陰で、ひっそりと20年の命を閉じた藤吉に眩しいほどのスポットを当て、涙や感動・笑いやほのぼのなどをいっぱい詰めた、嶺里ボーならではのユニークで豪快な一作です……。→ 続きを読む