坂本龍馬と岡田以蔵

土佐藩下横目・井上 佐市郎と岩崎弥太郎(後の三菱財閥の創業者)は藩主・山内豊範の参勤に従って上洛していましたが、それと同時に吉田東洋暗殺の犯人探索も行います。

 

文久2(1862)年8月2日、井上の行動を危険視した勤王党・平井収二郎らは暗殺を計画、井上を料亭「大与」に呼び出して泥酔させ、心斎橋上で、岡田以蔵・久松喜代馬・岡本八之助・森田金三郎の4人で井上の身柄を拘束して絞殺、遺体は橋上から道頓堀川へと投げ棄てます。
この時、同行していた弥太郎は難を逃れました。

 

これが岡田以蔵の最初の殺人になります。
そしてそれは絞殺によってなされます。

 

同年同月20日、越後国出身の勤皇の志士・本間精一郎も同じように酒に酔わせた上で岡田以蔵・平井収二郎・島村衛吉・松山深蔵・小畑孫三郎・弘瀬健太・田辺豪次郎、そして薩摩の田中新兵衛と共に殺害し、斬首、遺体は高瀬川に投げ込まれます。

 

その翌々日、今度は九条家の諸大夫・宇郷重国が寝ている所を岡田以蔵は岡本八之助・村田忠三郎、肥後の堤松左衛門と共に急襲、飛び起きて逃げようとしたところを以蔵が斬り殺し、子息は堤松左衛門が殺害しました。
そして宇郷重国の首は鴨川河岸に槍に刺し、捨札と共に晒されます。

 

こうやって書いていると、嫌になるほど卑怯で残忍な殺し方に辟易とします。
そしてことを重ねるに従って、斬首、その切った首を晒すなど、殺害後、興に乗っていくのが分かり、得体の知れない怖さを感じます。

 

これは新撰組にも通じることなのですが、人を殺している内に段々内容がエグくなっていくのは、何かの領域を破ってしまった恐怖を、興じることで紛らわしているように感じるのです。

 

それ以降も岡田以蔵は長州・薩摩を含めた他藩の者たちと手を取り、”天誅”という名の元に襲撃、殺害を繰り返します。
そして以蔵は同志から「天誅の達人」と呼ばれるに至ります。

 

そして翌年の1月、岡田以蔵は脱藩します。
なぜ脱藩したのかは分かりませんが、その後、長州藩邸の世話になったようです。
脱藩をきっかけに、以前にも増して酒や女郎通いに溺れ、同志から借金を繰り返し、その内に同志とは疎遠になってしまいます。

 

そして坂本龍馬を頼り、勝海舟のボディガードをします。

 

ある日、2人の武士が勝海舟を襲い、以蔵は1人を斬り殺しました。
その以蔵を見て勝は「無闇に人を斬っちゃいけない。」と諭します。
以蔵は「もし私が斬ってなければあなたは死んでましたよ。」と言葉を返したそうです。
そして勝海舟は後にピストル(リボルバー)を以蔵に渡しました。

 

京に出て半年にも満たない間に、以蔵の中で何もかもが狂ってしまったように感じます。
その後、無宿人になり鉄蔵と名を変え、元治元(1864)年6月、商屋への押し借り(強引に金品を借りること)の罪で捕らえられ罪人の入墨をされ、同時に土佐藩吏に捕らえられ土佐へ搬送されます。

 

土佐では吉田東洋暗殺や京における様々な暗殺に関与した疑いで、武市半平太を含む土佐勤王党の同志がことごとく捕らえられていました。

 

以蔵は女性も耐えたような拷問でさえ泣き喚き、間もなく拷問に屈して自分の罪状及び天誅に関与した同志の名を自白し、それによって、まだ捕えられていなかった同志からも新たに逮捕者が続出することになり、これが土佐勤王党の獄崩壊のきっかけとなったとされています。

 

この後、小説などでは以蔵の命を絶つために獄中に毒饅頭が差し入れられる話があり、実際その計画はあったようですが、以蔵の親族の了承が得られなかった為に計画は実行されなかったようです。

 

 

”君が為 尽くす心は 水の泡 消えにし後は 澄み渡る空”

 

岡田以蔵の辞世の句です。
…その”君”とは誰だったのでしょうか?

勤王の思いを綴ったのでしょうか?
誰か愛していた女性を想う言葉なのでしょうか?
それとも剣術修行時代、ずっと行動を共にした武市半平太のことだったのでしょうか?

 

岡田以蔵

慶応元(1865)年5月11日に打ち首、獄門。

享年28。

 

嶺里ボーのKindle小説「龍馬はん」

嶺里 ボー『 龍馬はん』 

 

 

慶応3年11月15日(1867年12月10日)、近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された当日、真っ先に斬り殺された元力士・藤吉。

その藤吉の眼を通して映し出された、天衣無縫で威風堂々とした坂本龍馬を中心に、新撰組副隊長・土方歳三の苦悩と抵抗、「龍馬を斬った男」と言われる佐々木只三郎、今井治郎の武士としての気概など、幕末の志士達の巡り合わせが織り成す、生命力溢れる物語……。→ 続きを読む

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