坂本龍馬とお龍(旅行編)

龍馬とお龍といえば有名なのが「日本で最初の新婚旅行」と呼ばれる薩摩の旅です。

 

以前、お話しした寺田屋の騒動で、龍馬は両手指に深い傷を負いました。

また、身に危険が及ぶかもしれないことを案じて、西郷隆盛が刀傷治療を兼ねた薩摩旅行を提案します。

 

それを受け、龍馬とお龍は慶応2年(1866年)3月4日に薩摩藩船「三国丸」で大坂を出帆しました。

その船上で龍馬は「天下が鎮まったら船を作って日本を巡ろう」と言うと、お龍は「家などいりません。船があれば十分です。外国まで廻ってみたいです」と答えます。

それを聞いて、龍馬は「突飛な女だ」と笑いました。

 

薩摩に着くと、龍馬とお龍は薩摩藩士・吉井幸輔の屋敷に身を寄せ、各地で温泉療養を行いました。

川で魚を釣り、山に入って鳥をピストルで撃ったりして遊び、咲き誇る深山霧島(ツツジ)の美しさに感動し、霧島山の頂にある、日本神話に登場するニニギノミコトの天の逆鉾を、同行していた田中吉兵衛が止めるのも聞かずに引き抜いてしまったりします。。

 

そんな旅行の一部始終を、龍馬は絵図付きで乙女姉に手紙を送っています。

 

 

この80日近くの新婚旅行は忙しい龍馬にとって、本当に心安まる日々だったのでしょう。

傷も癒え、気力も漲った龍馬は、第二次長州征伐で幕府軍と戦う長州へ向かいます。

 

その間、お龍は長崎の豪商・小曾根英四郎宅に預けられ、その後、龍馬は下関の豪商・伊藤助太夫宅に亀山社中の拠点を移しました。

そしてお龍は、ここで妹・起美と日々を過ごすようになります。

龍馬が下関に滞在の時は巌流島で一緒に花火を楽しんだり、歌会を開いたりしました。

 

女性と一緒に歩くだけでも武士の恥だと言われた時代に(実際に隊士の中にもお龍と共に歩く龍馬を「恥ずかしい」と言っていた人もいたようです。)好きな人と一緒に花火なんて、龍馬は本当に今の私たちみたいですよね。

 

だけど、それから「いろは丸」の一件があり、その後すぐに大政奉還に向けて龍馬は疾走するので、お龍とは離ればなれになってしまいます。

 

その後、龍馬はお龍に「京へは30日ばかりいて、その後長崎に帰ります。その時必ず下関に寄ります。」と手紙を出しますが、それが龍馬からの最後の頼りになってしまいました。

 

慶応3年11月15日、龍馬は中岡慎太郎、元力士の山田藤吉と共に、近江屋で殺害されます。

お龍はその訃報を三吉慎蔵から聞きました。

 

お龍は静かに仏前に座り、しばらく合掌していましたが、突然ハサミで髪を切り白紙に包んで仏前に供えると、堪えていた涙が溢れて泣き伏したそうです。

龍馬の死からしばらく経って、龍馬と親しかった高杉晋作が、維新の動乱の中で亡くなっていった人々の為に建てた、下関の桜山神社の慰霊碑に行き、亡くなった龍馬に代わって弔いの歌を詠みます。

 

もののふの
屍はここに桜山
花は散れども
名こそ止むれ

 

その句から毅然としたお龍の表情が浮かびます。

 

 明治39年(1906年)1月15日、お龍はその命の幕を閉じました。

享年66歳でした。

お龍の墓碑には「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」と刻まれ、龍馬の眠る京都霊山護国神社にも分骨されました。

 

そこで、激動の時代を共に生きたことを、今も懐かしく語り合っているのかもしれません。

 

嶺里ボーの小説「龍馬はん」は、大政奉還後から近江屋事件までの、そんな坂本龍馬がイキイキと書かれています。

 

嶺里ボーのKindle小説「龍馬はん」

嶺里 ボー『 龍馬はん』 

 

 

慶応3年11月15日(1867年12月10日)、近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された当日、真っ先に斬り殺された元力士・藤吉。

その藤吉の眼を通して映し出された、天衣無縫で威風堂々とした坂本龍馬を中心に、新撰組副隊長・土方歳三の苦悩と抵抗、「龍馬を斬った男」と言われる佐々木只三郎、今井治郎の武士としての気概など、幕末の志士達の巡り合わせが織り成す、生命力溢れる物語……。→ 続きを読む

 

 

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